チャイコフスキー『懐かしい土地の思い出 作品42』
1.瞑想曲 Méditation
2.スケルツォ Scherzo
3.メロディ Mélodie
ロシア出身の作曲家チャイコフスキーが1878年に作曲しました。哀愁漂う第1曲目の『瞑想曲』、一転せわしなくリズムが刻まれ躍動感のある第2曲目の『スケルツォ』、アンコールピースとしてもよく演奏される有名曲である第3曲目の『メロディ』の3曲から成る小品集です。完成するとパトロンであった女性に、感謝の印として送られました。
実は、チャイコフスキーがヴァイオリン協奏曲の第2楽章に取り組んでいて作曲されたのが第1曲目『瞑想曲』でした。つまり、協奏曲の緩徐楽章にするにしては『瞑想曲』は内容が薄いと判断し、改作して2つの楽章を後ろに追加し、今ある形の小品集になったのです。
この小品集はチャイコフスキーのパトロンであったナデーシュダ・フォン・メック夫人が所有していたウクライナの田舎町の領地であるブレイロフで作曲され、完成すると夫人に贈られました。
「私の作品をマルセル(夫人の財産管理人)に託して、あなた(メック夫人)にお渡しします..私は第1曲目が一番いいと思いますが、一番苦労しました。2つ目は非常に活発なスケルツォで、3つ目は無言歌です。作品をマルセルに渡した時、私は何とも言えない憂鬱な気持ちになり、この手紙を書くために座っている間も続いていました。リラの花が満開で、草もまだ生い茂り、バラがちょうど咲き始めたばかりであるのを見てようやくおさまりました。」
“I have left my pieces with Marcel to give to you... In my opinion, the first of these is the best, but it gave me the most trouble; it is called Méditation and is to be played a tempo Andante. The second is a very brisk scherzo, and the third – Chant sans paroles. On giving these pieces to Marcel, I experienced an indescribable melancholy, which stayed with me even as I sat down to write this; until I saw the lilacs still in full bloom, the grass is still long, and the roses only just starting to blossom!"
(図: 1874年( 33歳)の作曲家) (参照元:文献2)
チャイコフスキーが同性愛者であったことは当時から噂にはなっていたものの、彼は生涯その事実を隠していました。当時のロシア帝国においては同性愛が犯罪行為であったのです。ある時期には、親戚をなだめるために、性的指向を変えて女性とうまく暮らすことができるのではないかと考えたといい、苦悩しながらもチャイコフスキーは仕方なく1877年、37歳で好きでもない女性とモスクワで結婚しますが、耐えきれずに6週間後に完全に別れてしまいます。この結婚は女性の一方的な片思いであったと言われ、チャイコフスキーは妻のことを「ひどい傷」と呼んでいました。彼は結婚という拘束を重く感じており、同性愛者としての嗜好について妻から「暴露」されることを恐れていました。
私生活においてこのような苦悩があった反面、同時期である1876年にチャイコフスキーにとっては“良い出会い”がありました。鉄道王の未亡人ナデシュダ・フォン・メックです。彼女はチャイコフスキーの音楽を賞賛していましたが、彼が財政難に陥っていることを知り、彼に作品を依頼するようになり、定期的に小遣いを支給するようになりました。二人はとある条件で合意しました――手紙のみでやり取りし、決して顔を合わせないこと――。 二人はこの関係に非常に満足しており、1200通を超える手紙が交わされ、支援関係はこの後14年近く続くことになりました。このようにして、メック夫人のお金のおかげで、チャイコフスキーは創作活動に専念することができるようになりました。
(図:メック夫人)(参照元:文献2)
チャイコフスキーは1878年から1880年の間に何度か離婚を試みましたが、成功しませんでした。結局妻はチャイコフスキーがモスクワを離れることには同意し、チャイコフスキーはメック夫人の領地があったブレイロフでの数週間の独りの時間を過ごすことができました。これは歓迎すべき休息となり、彼にとっての「親愛なる場所」となりました。そして滞在中に先述のように、もともと2ヶ月前ほどに作曲していた第1楽章に付け加える形でこの曲が作曲されたのです。
第1楽章は、暗めの感傷的な主題から始まります。たまに前に気持ちが走るものの、やはり内省的になってしまうような様子を映しているようです。中間部は、一転現実の暗さから離れて、淡くて儚い夢を見ているかのようなモチーフが現れます。徐々に感情も高ぶり緊張度も高まりますが、行き着く先は元と同じ、切なく叙情的な主題です。
第2楽章のスケルツォは怒りでざわめく心のような、激しさを醸し出しています。激しさが一旦終わってすぐに中間部で出現するトリオ・セクションはシンプルな旋律に基づいていて、どこか切なさを感じさせます。ちなみにスケルツォはもともとイタリア語で「冗談」という意味で、交響曲、弦楽四重奏曲、ソナタなどの第2または第3楽章に用いられるテンポの速い3拍子の曲に名付けられていることが多いです。
第3楽章は第1楽章よりも音域が上がり、穏やかで、かつどこか寂しげな旋律から始まります。その旋律が少しだけ発展して再度現れると、軽くて可愛らしいモチーフが現れます。まるでバレリーナがふわりと身軽に優雅に回りながらステップしているかのようにも感じられ、チャイコフスキーはバレエ音楽の大家でもあり『白鳥の湖』(1875年)、『眠れる森の美女』(1889年)、『くるみ割り人形』(1892年)を作曲したことを思い出させてくれます。
だんだんとピアノとともに感情が高ぶり、全てが解放されて広々としたような様子で冒頭のテーマの旋律が戻ってきます。最後は穏やかに、消え入るように曲を閉じます。
ちなみにチャイコフスキーは「思い出」と題した曲を複数作っています。
弦楽六重奏曲「フィレンツェの想い出(Souvenir de Florence)」(1887 - 92年)、ピアノ三重奏曲「ある偉大な芸術家の思い出のために」(1882年)、弦楽のためのエレジー「イヴァン・サマーリンの思い出に」(1884年)などです。故人を偲び、良い思い出を保存するためにも、自身の傷つきやすく繊細な心を癒すためにも、少し日常から離れて過去を回顧し、自由に気の赴くままに心を解放することは、彼にとってはなくてはならない時間であったのかもしれません。
今回の懐かしい土地はどこを想いながら名付けたのでしょうか。瞑想曲は何に思いを巡らせていて、無言歌では何を歌っているのでしょうか。スケルツォでのざわめきは何を表すのでしょうか?聴く人にも演奏者にも大きな想像の余地があり、チャイコフスキーの心情を追体験することができます。
小林香音
References
(1) www.tchaikovsky-research.net. Souvenir d'un lieu cher.
(2) Tchaikovsky: A Life. Tchaikovsky Research.2020.10.27
(3)Outing Peter Ilyich..Paul Griffiths.Jan. 5, 1992. https://www.nytimes.com/1992/01/05/books/outing-peter-ilyich.html
2020.10.27